東京高等裁判所 平成4年(行ケ)214号 判決 1994年9月22日
スイス国バーゼル、クリベツクストラーセ141番
原告
チバ・ガイギー
アクチエンゲゼルシヤフト
同代表者
ワーナー ワルデツグ
同訴訟代理人弁理士
岡部正夫
同
臼井伸一
同
藤野育男
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 高島章
同指定代理人
産形和央
同
市川信郷
同
吉野日出夫
同
関口博
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
「特許庁が平成3年審判第10016号事件について平成4年5月21日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
2 被告
主文1、2項と同旨の判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、名称を「皮革または毛皮を染色するための、1:2-クロム-または-コバルト錯体染料の使用法」とする発明(以下「本願発明」という。)について、1981年3月23日、スイス国でした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和57年3月23日、特許出願をした(昭和57年特許願第44748号)ところ、平成3年1月25日、拒絶査定を受けたため、平成3年5月20日、審判を請求した。特許庁は、この請求を平成3年審判第10016号事件として審理した結果、平成4年5月21日、上記請求は成り立たない、とする審決をし、その審決書謄本を、平成4年7月6日、原告に送達した。
2 本願発明の要旨
「遊離酸の形では下記の式で表される染料を用いて皮革または毛皮を染色する方法。」
<省略>
3 審決の理由
別紙審決書写し理由欄記載のとおりである。
4 審決の取消事由
審決の理由Ⅰ(特許出願の経緯及び本願発明の要旨)及びⅡ(引用例の記載事項)は認める。同Ⅲ(本願発明と引用発明の対比判断)のうち、本願発明の染色対象が毛皮の毛の部分を含むとし、この点において、引用例記載の発明(以下「引用発明」という。)と染色対象が同じであるとする点は争い、その余は認める。同Ⅳ(対比判断)及びⅤ(結論)は争う。審決は、本願発明の構成が引用例に実質的に開示されていると誤って認定し、また、本願発明の顕著な作用効果を看過した点において、違法であり、取消しを免れない。
(1) 本願発明が引用例に実質的に開示されているとした審決の誤り(取消事由1)
審決は、本願発明が引用例に実質的に開示されているとするが、以下に述べるとおり、誤りである。
まず、本願発明と引用発明における染色対象の違いについてみると、染色材料としての動物性材料には種々の材料が含まれ、それらの材料はそれぞれ特有の組織を持っており、それらの個々の材料の染色に好適な染色条件、すなわち、染料及び染色方法は材料毎に異なっていると考えるのが普通であり、染色対象として一般的に「動物性材料」と記載されていても当該染料が全ての動物性材料に好適に適用可能と考えるのは相当ではない。したがって、当該発明に係る染料の染色対象として真に意図されているものが何であるかは、明細書の実施例に記載された材料を中心として、それに近似した範囲のものに限られると考えるべきである。
そこで、本願発明についてみると、本願明細書には、染色対象として、「皮革及び毛皮」との記載があるから、本願発明と引用発明とは、「毛皮」を染色対象とする点において文言上共通しているといえる。しかしながら、毛皮が毛と皮革からなっていることはいうまでもないところであるが、毛と皮革はそれぞれ全く異なる組織を持っていて、それらに好適な染色条件は全く異なっている。してみると、毛皮の染色という場合には、毛又は皮革のいずれかに染色の主眼点があるというべきである。これを本願発明についてみると、毛皮の毛の部分の染色にはそのための特別の条件が必要であるにもかかわらず、本願明細書にはかかる条件の記載はなく、かえって、本願明細書に記載の実施例に示された染色条件においては、毛皮の毛の部分は染色されず、皮革部分のみが染色されることからすると、本願発明における毛皮の染色とは、毛皮の皮革部分の染色を意味することは、明らかである、したがって、本願発明の染色対象の示す特許請求の範囲記載の「毛皮」とは、「毛皮の皮革部分」を意味するものと認定されるべきものである。
これに対し、引用例に記載された実施例をみると、染色対象として、羊毛のみが記載されており、また、引用例では、好適な動物性材料として羊毛に加えて絹及び毛皮が例示されていることを考慮すると、引用例に記載された染色対象としての「毛皮」において真に意図された染色対象は、毛皮の毛の部分に主眼があると解すべきであり、皮革部分は染色対象から除外されていると考えるのが相当である。
したがって、本願発明が皮革の染色を対象とするのに対し、引用発明は毛皮の毛の部分を染色対象とするものであるから、両者が染色対象において同一であるとした審決の判断は誤りである。
次に、審決は、引用例には本願発明の染料の構成が実質的に開示されているとするがこの判断も以下に述べるとおり誤りである。
確かに、引用例には、アゾ染料を製造するための原料として、2つのカップリング成分(1-オキシナフタリン-4-スルホン酸、1-オキシナフタリン-5-スルホン酸)と6つのジアゾ成分(6-クロル-4-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン、4-クロル-5-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン、4-クロル-6-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン、4-メチル-5-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン、4-ニトロ-6-アセチルアミノ-2-アミノ-1-オキシベンゼン、6-ニトロ-4-アセチルアミノ-2-アミノ-1-オキシベンゼン)が開示されていることは事実であり、本願発明に使用する染料の構成が4-クロル-5-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼンをジアゾ化し、これと1-オキシナフタリン-5-スルホン酸をカップリングしたものであることは審決が摘示するとおりである。しかし、引用例において、具体的な染料として成立の認められるものは例1、例2及びその表に記載のものだけであり、上記以外のものは染料としての成立を認めることはできないものである。なぜなら、染料の化学構造は、化学構造式によって示されるものではあるが、化学構造式のみから、その染料の特性、例えば、化学的性質、物理学的性質等を知ることはできないから、公知のカップリング成分とジアゾ成分との例示によって、それらの組合せから構成される化学構造を有する全ての染料を公知の、すなわち、開示された染料であるとみなすことは誤りである。化学構造式は、染料の構造の一部分であって全部ではないからである。したがって、本願発明に使用される染料の構造が前記のような引用例に開示された物質の組合せに含まれているとしても、その染料としての性質が全く開示されていない以上、本願発明に使用する染料の構成が開示されているとすることはできず、審決の本願発明が引用例に「実質的に開示されている」との判断は誤りである。また、引用例には、本願発明で使用する5位置に置換基を有するカップリング成分を選択する染料の構成を指向する記載もない。
(2) 顕著な作用効果の看過(取消事由2)
本願発明は、皮革を染色の対象とするものであるところ、審決は、皮革染色において本願発明の方法が奏する顕著な効果を看過したものである。すなわち、本願発明の染料と引用発明の染料による皮革染色物の彩度の差異は、CIELABユニットによって1.6~10.7である(甲第4号証、同第8号証)。そして、引用発明の染料は、皮革を満足な鮮明色に染色することができない水準以下のものであるのに対し、本願発明の染色法によれば、皮革を充分に満足な鮮明色に染色することができる上、「所望の色に対して1ユニット以上の差異がある場合は、顧客は染色された材料の色に満足しない」ことからすると、上記の差異は人間の目に充分認識される顕著な差異であることは明らかである。そうすると、上記の差異は、本願発明の方法による彩度の効果が引用発明のそれと比較して極めて顕著であることを物語っているものである。
しかるに、審決は、かかる本願発明の奏する顕著な作用効果を看過したものである。
第3 請求の原因に対する認否及び被告の主張
請求の原因1ないし3は認めるが、同4は争う。審決の認定判断は正当である。
1 取消事由1について
まず、原告は、本願発明と引用発明における染色の対象が同一であるとした審決の判断を誤りであるとするが、失当である。すなわち、引用例には、「本発明方法でつくる新規金属含有染料は水によく溶解する。これらの染料は広範囲にわたる材料の染色または捺染に適しているがことに動物性材料たとえば絹、毛皮およびことに羊毛の染色または捺染に適している。」(2頁右欄16行ないし19行)と記載されている。ここには、引用発明の染料は、広範囲にわたる材料、ことに動物性材料の染色に適していることが示されており、しかも本願発明の染料の対象の1つである毛皮の染色に適していることが明示されている。毛皮は動物の皮を脱毛しないでなめした物、皮革は動物の皮を脱毛してなめした物であって、いずれも引用例記載の動物性材料の代表的な物である。すなわち、引用発明の染料は、本願発明が染色対象としている毛皮及び皮革を包含する動物性材料について、特に適しているとしているのである。そうすると、本願発明の染色対象が毛皮又は皮革であるにもかかわらず、引用例には、その一方の皮革について明示されていないことを根拠に、両者の染色対象が同一でないとする原告の主張は誤りである。
次に、本願発明は引用例に実質的に開示されているとした審決の判断には、以下に述べるとおり誤りはない。
引用例に開示された金属含有アゾ染料は、代表的な合成染料であるアゾ染料であり、しかもそのうちの含金属染料に属する典型的な染料である。引用例には、「本発明は、また一般式(Ⅰ)で表わされるアゾ染料をクロム付与剤またはコバルト付与剤で処理することによりなる。」(1頁右欄9行ないし11行)及び「本発明方法に原料として使うことのできる前記モノアゾ染料は、非イオン性置換基の2個を含有するベンゼン系のO-オキシ-ジアゾ化合物を、1-オキシナフタリン-4-スルホン酸または1-オキシナフタリン-5-スルホン酸とカップリングすることによって製造することができる。」(1頁右欄12行ないし17行)と記載した上で、さらに「前記モノアゾ染料を製造するために使うオキシジアゾ化合物の例として、次のようなアミンからつくることができる化合物をあげることができる。」(1頁右下欄18行ないし20行)として、6種類のアミノ化合物が具体的に示され、加えて、「前記O-オキシ-ジアゾ化合物と1-オキシナフタリン-4-スルホン酸または1-オキシナフタリン-5-スルホン酸とのカップリングは、それ自体公知の方法たとえばアルカリ性媒質の中で行うことができる。」(1頁右下欄30行ないし33行)と記載されている。
つまり、引用例には、具体的に化合物名が記載された6種類のアミノ化合物のジアゾ化合物と1-オキシナフタリン-4-スルホン酸又は1-オキシナフタリン-5-スルホン酸とのカップリングによるアゾ染料及びこのアゾ染料をさらにクロム付加剤又はコバルト付加剤で処理した含クロム又は含コバルトアゾ染料が開示されているのである。そして、引用発明の実施例としては、アミノ化合物として6-クロル-4-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン(前記6種類のうちの1番目に記載のアミノ化合物)又は4-クロル-6-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼン(同3番目に記載のアミノ化合物)を用いて、そのジアゾ化合物を1-オキシナフタリン-4-スルホン酸又は1-オキシナフタリン-5-スルホン酸とカップリングさせ、クロム付与剤又はコバルト付与剤で処理した例が開示されている。
そして、本願発明の染料は、引用例の例2の表3に示されている染料(3頁左下欄末行の化学構造式で示される染料)とは、アミノ化合物中のニトロ基(NO2)の結合位置のみが相違する極めて類似の染料であり、しかも、上記アミノ化合物として、前記の4-クロル-6-ニトロ-2-アミノ-1-オキシベンゼンを用いて、例2に示された方法により、そのジアゾ化合物を1-オキシナフタリン-5-スルホン酸とカップリングさせ、クロム付与剤(クロムサリチル酸ナトリウム)で処理して得られるものである。
そうすると、本願発明の含クロムアゾ染料は、引用例に実施例としては示されていないものの、引用例に具体的に記載されているアミノ化合物から、実施例に示された方法により得られるものであるから、引用例には実質的に開示されているものというべきである。
2 取消事由2について
原告は、本願発明が皮革染色において著しく彩度を高めることができるという引用発明にない顕著な効果を奏する点を看過したと主張するが、失当である。すなわち、引用例には、「従来のクロム含有の染料によって得られた染色と比較してその色調の鮮明さ、堅ろう性の良さによって秀れたものである。」との記載(2頁左欄下から3行ないし同右欄下から4行)があり、鮮明さの点で優れた効果を有することが開示されているところ、原告が主張する皮革染色における彩度の違いなるものは、引用例に開示された前記の効果と同質の効果であり、引用発明の範囲内での効果の違いの域を出るものではなく、本願発明が引用発明に比較して格別優れた効果を奏するものとは認められない。
さらに、選択発明の観点からみても、本願発明は選択発明としての要件を満たしていないものである。すなわち、選択発明を構成するためには、当該発明を構成する要素が具体的に開示されていないことに加え、その発明の全ての範囲において先行発明には知られていなかった特有な、ないしは顕著な作用効果を奏することが明細書に明瞭に開示されていることが必要である。これを本件についてみると、前項に述べたように、本願発明の染料は引用例に実質的に開示されている上、本願発明の染色対象は、毛皮又は皮革であるから、毛皮と皮革の両者についていずれも引用例にはない顕著な作用効果を奏さなければならない。しかるに、原告は、皮革についてのみ顕著な効果を主張し、毛皮については顕著な効果を主張していないし、本願明細書にもこの点の記載はない。したがって、本願発明がその全ての範囲において顕著な効果を奏するものでないことは明らかである。
のみならず、皮革に限ってみても原告主張の彩度の差異から本願発明には引用発明に認められない格別顕著な効果が示されているとはいえないことは前記のとおりである。
第4 証拠
証拠関係は書証目録記載のとおりである。
理由
1 請求の原因1ないし3は当事者間に争いがない。
2 いずれも成立に争いのない甲第2号証(願書添付の明細書)、第5号証の1(平成2年10月17日付け手続補正書)及び同号証の2(平成3年6月19日付け手続補正書、以下一括して「本願明細書」という。)によれば、本願発明の概要は、以下のとおりである。
本願発明は、遊離酸の形では本願発明の前記要旨記載の式で表される染料を用いた毛皮(この「毛皮」なる用語が、皮革部分に限定されるかそれとも毛の部分をも含むかについては、後に検討するとおりである。)又は好ましくは皮革の染色法であり、本願発明の染色法で使用される染料の製造は、常法により、製造されるものである。本願発明の染色法による場合は、良好な堅牢度、とりわけ日光堅牢度及び湿潤堅牢度を示す青色又は紫色の染色物が得られるとの作用効果を示すものである(本願明細書2頁末行ないし5頁9行)。
3 取消事由について
引用例に審決摘示の技術的事項の記載があること及び本願発明で用いられる化学構造式の染料が引用発明の一般式で表される染料の化学構造式に包含されるものであること、すなわち、本願発明は、引用例に開示された化学構造式で示された染料に包含される染料を用いた染色法であることは当事者間に争いがない。
原告は、取消事由1において、染料の発明では、化学構造式のみから染料の特性を知ることができないから、実施例として開示された発明に限ってその成立を肯定すべきところ、引用例には本願発明に使用されている染料の構成がその実施例に開示されていない、と主張するが、染料の発明の場合に限ってこのように解すべき根拠はなく、成立に争いのない甲第3号証(引用例)によれば、本願発明の構成は当業者が引用例に具体的に開示されている技術事項に基づき審決認定のアミノ化合物を用いてその例2に示された方法により得られるものであることが認められるから、原告の上記主張は採用できない。
そうすると、審決の取消事由として更に検討すべき原告の主張の要旨は、本願発明の染色法と引用発明の染色法における染料の化学構造式自体が上記のような上位概念と下位概念の関係にあったとしても、染色法の発明においては、同一染料であっても染色材料毎に、染色の効果に大きな差異が生ずることからすると、染色対象、染色効果等に関する開示までなければ、具体的な染色法の開示があったことにはならないところ、本願発明は皮革を染色対象とする点及び引用発明からは予測できない顕著な作用効果を奏する点において引用発明と異なるから、両発明は同一ではなく、選択発明の成立が肯定されるべきであるとするものであるから、以下、両発明の染色対象及び作用効果の顕著性について、順次、検討することとする。
(1) 両発明の染色対象について
まず、本願発明の染色対象について検討する。本願明細書によれば、本願発明の特許請求の範囲に「・・・皮革または毛皮を染色する方法」との記載があることが認められ、この「毛皮」の一般的な語義によれば、皮革部分と毛の部分の両者を含むものであることは、公知の事実であり、原告においても「毛皮」の一般的な語義が上記のとおりであることは自認するところである。そうすると、以上のような、一般的な語義による限り、本願発明の染色対象を示す前記「皮革または毛皮」とは、「皮革」並びに「皮革及び毛」の双方を染色対象として含むものであることは一義的に明らかというべきであり、上記の文言に特に不明確な点はない。
この点について原告は、染色対象としての「皮革」と「毛」の染色特性は大きく異なるから、両者を同時に染色対象とすることはあり得ず、したがって、「皮革」と並んで「毛皮」が染色対象とされた場合には、「毛皮」のうち、染色特性を異にする「毛」の部分を含まず、「皮革」部分のみが染色対象であることを意味すると主張する。そして、前掲甲第2号証によれば、本願明細書の発明の詳細な説明中の実施例1ないし26には、各実施例記載の染料が皮革を秀れた、又は良好な堅牢度を持つ青色又は紫色色調に染色する旨記載されていることが認められる。
しかしながら、本件全証拠を検討しても、「皮革」を染色対象とする染料が「毛」の部分には適用できないことを認めるに足りる証拠はない。かえって、成立に争いのない乙第5号証(昭和46年特許出願公告第3278号公報)には、名称を「含クロムアゾ染料の製法」とする発明に関し、「本製法により得られる新規クロム第一鉄混合錯化合物は広く各種の物質の浸染または捺染に、特に動物性物質たとえば絹、羊毛または皮革の染色に、またポリアミド、ポリウレタンまたはポリアクリルニトリルの合成繊維の浸染または捺染に適している。この錯化合物は特に中性または弱酸性のたとえば酢酸染浴から染色するのに適している。」(4欄21行ないし27行)との、また、同第6号証(昭和55年特許出願公告第43026公報)には、名称を「スルホン酸基を有するクロム含有アゾ染料の水溶性組成物の製法」とする発明に関し、「o・o’-ジオキシアゾ染料のクロム含有染料は公知のように繊維品の染色及び捺染において、特に天然及び合成のポリアミドたとえば羊毛、絹、皮革、ナイロン、ポリカブロラクタムなどの場合に大きな役割をする。」(6欄38行ないし42行)、「本発明の組成物の水への溶解性は無制限であり、組成物を水に加えるか又は水をこれに加えるかいずれでもよく、また水への組成物の溶解性は温度に無関係である。・・・この濃厚組成物は天然又は合成のポリアミド、たとえば羊毛、絹、皮革、ポリアミド-6、ポリアミド-6・6、ポリアミド-6・10などの染色及び捺染に、それ自体としてならびに濃厚又は希薄な染浴として著しく適している。」(13欄16行ないし29行)との、同第7号証(昭和50年特許出願公告第15247号公報)には、「クロム含有黄色アゾ染料の製法」とする発明に関し、「本発明方法によつて得られる新規クロム含有混合錯塩は極めて広範囲の物質特に動物性物質例えば絹、皮革特に羊毛を染色及び捺染するのに適している」(6欄18行ないし21行)との各記載が認められ、以上の各記載によれば、「皮革」と「毛」の両者の染色に適用可能な染料が存在することは明らかであり、たとえ原告主張のように、上記各染色対象の染色特性が異なるとしても、このことから直ちに「皮革」を染色対象とする染料が「毛」の染色には適用できないとの技術的認識が本出願前、当業者間において確立していたものとは到底認め難いものといわざるを得ない。してみると、本願発明の特許請求の範囲における「毛皮」とは、前記のような一般的な語義に従い、「皮革」のみならず「毛」の部分を含むものと解することが相当というべきであって、本願明細書の実施例がいずれも皮革の染色についてのみ記載しているという事実のみをもって、本願発明が毛皮の毛の部分を染色対象から除外しているということはできない。
次に、引用発明の染色対象について検討する。引用例に審決摘示の技術的事項の記載があることは当事者間に争いがなく、特に「毛皮などの動物性材料の染色又は捺染に適している」との記載部分に前記認定の事実を勘案すると、上記の「毛皮」は、「毛」の部分のみならず「皮革」部分をも含むものと解するのが相当というべきであり、成立に争いのない甲第3号証(引用例の特許出願公告公報)を精査しても、上記の「毛皮」を「毛」部分に限定して解釈しなければならない根拠を見いだすことはできない。
以上によれば、本願発明の染色対象は、「皮革」及び「毛」の両者を含む点において、引用発明と異なるところはなく、両発明の染色対象が一致するとした審決の判断に誤りはない。
(2) 顕著な作用効果の有無について
前掲甲第5号証の1(平成2年10月17日付け手続補正書)によれば、本願発明の下記式で表される染料Aと引用発明の実施例2のNo.3の下記式で表される染料Xとを用いて5種類の皮革を染色した比較試験の結果によれば、染料Aと同Xとの彩度(色の鮮やかさ)の差をドイツ工業規格DIN6174〔シーラブ(CIELAB)による色差の比色分析〕により、昼光照射下において測定したところ、染料Xは同Aを基準にして、CIELAB単位により最大2.35から最小1.7彩度が劣るとの結果が生じた事実が認められる。
染料A
<省略>
染料X
<省略>
また、成立に争いのない甲第8号証によれば、前記染料Aと引用発明の実施例2の下記式で表される染料Y及び同実施例の表中の下記式で表されるNo.5の染料Zを用いて3種類の皮革を染色した比較試験の結果によれば、染料Aと同Y及びZとの彩度の差を前記と同様の条件下で同様の評価法で評価したところ、染料Yにおいては、最大10.7から最小8.85、同Zにおいては最大3.5から最小1.6彩度が劣るとの結果が生じた事実を認めることができる。
染料Y
<省略>
染料Z
<省略>
ところで、成立に争いのない甲第6号証(R.Schaich著「Farbmetrische Qualitatskontrolle im Textilveredlungsbetrieb」TEXTILVEREDLUNG13(1978)Nr.1)には、見本(基準)の色と対照物の色を対比した場合、彩度については、見本からのずれ(偏差)が≧1.0単位(CIELAB)以上の場合には、不合格と判定される旨の記載があることが認められるから、この記載によれば、本願発明と引用発明の前記各染料との彩度における最小の差異においても、十分に見分けがつく程度の差異であるものということができる。しかしながら、上記の差異は両者が彩度において見分けがつくことを意味するに止まるところ、このように彩度において見分けがつくという程度の差異があるからといって、これが直ちに顕著な、当業者が予測し難い程の差異であると断定することはできないから、更に進んで、上記の差異について検討すると、成立に争いのない甲第9号証(1981年6月15日、財団法人日本規格協会発行、川上元郎著「色の常識」増補改訂2版)によれば、彩度の差は写真3.3の横方向に隣接する各色において彩度2の差異を意味するものと認められるところ、上記の隣接する各色を見ると、本願発明と引用発明の前記各染料の彩度の差異である1.6ないし1.7は識別可能であるとはいえても、この程度の差異をもって彩度において顕著な差異があるとまでいうことは到底困難といわざるを得ないというべきである。加えて、引用発明の奏する作用効果を引用例の記載に即してみると、前掲甲第3号証によれば、「本発明方法でつくる新規染料によつて得られた染色および捺染は、その染着力の優秀さ、その染着の均一性およびことに従来のクロム含有の染料によつて得られた染色と比較してその色調の鮮明さ、塩素および日光に対する堅ろう性の良さ、なかでも摩擦およびポツチングに対する堅ろう性の良さによつて一般に秀れたものである。これらの湿潤に対する堅ろう性は一般にスルホン酸基を含有しないで一般に製造し難い同様の染料によつて得られる染色の堅ろう性に相当するものである。」(2頁左欄下から3行ないし右欄下から4行)との記載が認められ、この記載によれば、引用発明の奏する作用効果は、前記2に認定の本願発明の奏する作用効果と同質のものであると認められる。そうすると、染色対象を原告主張の皮革に限定してみたとしても、本願発明は前記のとおり、彩度において引用発明よりも優れた作用効果を奏するものの、その差異は引用発明の奏する作用効果から連続的に推移する程度のものといわざるを得ず、これをもって当業者の予測を越えた顕著な作用効果とまでいうことは困難といわざるを得ない。
(3) 以上説示したところによれば、本願発明と引用発明は染色対象において異ならず、また、彩度においても顕著な差異があるとまでいうことは困難といわざるを得ないから、引用例に本願発明が実質的に開示されているとした審決の判断を誤りということはできず、審決に原告主張の違法はない。
4 よって、本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担及び附加期間の定めについて行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条を各適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 関野杜滋子 裁判官 田中信義)